昭和49年03月01日 朝の御理解


 
 御理解 第24節
 「人に誘われてしょう事なしの信心は付け焼き刃の信心じゃ付け焼き刃の信心は取れ易いぞ、どうぞその身から、打ち込んでの真の信心をせよ、世に勢信心と云う事を云うが、一人で持ち上がらぬ石でも大勢かけ声で、一度に力を揃えれば、持ち上がる、バラバラでは持ち上がらぬぞ、家内中勢を揃えた信心をせよ。」

 同じ信心と云うても、家族が勢を揃えてしかも、真の信心を目指しての、信心でなければならないと云う事を、教えてあるのですね、まあとても、是は人間業ではいけぬ、まあ一つ、神様のおかげなっと頂かにゃと言う位の事ででも、やと言う様な事があるね、所謂それは真の信心では無い、言うなら自分の或る場合は、我情我欲かも知れない。ね。けれどもそこに例えば、自分からその、打ち込んだ信心と言う事は、そういうまあ威力を発揮する事があるけれども。
 所がそう云う信心では、なら自分の思う様にならなかったら、もうそれで止めてしまう。例え打ち込んでなら信心させて貰っても、ですから何処までもその、真の信心でなからなければならないと思うね、真の信心を目指すしかも家族が勢を揃えて、真の信心を目指す、しかも一人一人が、その身から打ち込んで、目指す信心で進めまして貰う。こう云う信心なら崩れる事もなからなければ、その身から打ち込んだ言うなら信心が出来る、付け焼き刃的なものでない。
 誰れも初めからその真の信心が解りたい等と云うて、信心をする人はあのう極く少ない。矢張りおかげを頂きたい、と云った様な所からですけれども段々金光様の御信心を頂いておると、真の道を教えてもらい、人間としての本当の生き方、もう人間の本当の幸福な行き方とは、此処に在るんだぞと教えて貰う、だから人間の矢張り真実の幸福を願い求めて、信心をさせて貰う。それが私は真の信心だと思う。ね。
 だから結局その真の信心を目指すと言う事、しかもその真の信心が一人でよりも二人、二人よりも一家勢を揃えてと言う事になると、それは大変な威力を発揮する、其処でですね、そのう真の信心をせよと此処にも教えて居られます様に、真の信心と言う事は、どう言う事だろうか。昨夜永瀬さんところの謝恩祭でした、大変盛大なお祀りで御座いましたが、何か帰りがけから非常に体が寒気がする、それでもう帰らせて頂いてもうそのまま寝ませて頂いたんですけど寝ませて頂いたらすぐお夢を頂いた。
 そのお夢があのう未だ永瀬さん所におる様な感じ、永瀬さんが何か改まってお届けをなさって居られる、それが何か大変目出度い事の様である、何かその内容は良く解りませんけど、とにかく目出度い事のいはばお届けがあっておる、そこで私は神様にそのことをお届けさして頂いたら、くみあいは結構ですと頂いた。三代金光様のお言葉の様な、語調ですね、そのくみあいと言うのはね、こういう字が書いてあった、苦しいの苦という字と、みは三と言う字、あいは愛情の愛です。
 苦しい三つの愛と書いてある、苦三愛、苦三愛が結構ですと。私はどう言う事であろうかとまあ色々思ったけれども解らん、尚又お願いさせて頂いたら、苦三愛の苦と云う字を消して頂くところを頂いた、だっくと申します、苦が脱けると申します、私どもが様々な、苦労が脱けた世界を極楽の世界と申します、喜びの世界安心の世界です。苦の脱けた世界、苦が脱ける程の世界と云うものは、どう言う事かというと、三愛である三つの愛である、是が一つ一つ解らせて貰う。
 是は三代金光様のどういう遠大なる御真意か解りませんけど、この筑後地区に神愛会というのが三つある。甘木・久留米・合楽である、甘木の神愛は金光様は真の愛とお書き下げになったそうですね真の愛、と久留米の親愛は親の愛と親愛会・久留米の手続きの先生方が、信心共励会をなさっておられるその会名前です、合楽の場合は、神愛会所謂神の愛の会と下さった、同んなじ神愛会である、三愛とはそう言う様な事である。
 親の愛真の愛神の愛その事を、ははぁそうだろうと思うて私はまた、神様にその事をお礼申さして貰いよったら、真の愛と云う是にはあのう是が真ですわね。ところが見て下さい、これが真の、これは私がもう御心眼に頂いたもうそれは、あんな字が書けるだろうかと言う様な素晴らしい真と言う字でしたがね、素晴らしい字だけど点々がね、非常に小さく頂いたんです。
 ははぁ永瀬さんの信心の過程というならば、信心がまあ親の愛の信心が過ぎて、今真の愛の信心に入っとられるのだなと、素晴らしいけれどもまだ、下の方がまぁだちょっと点々が小さいがっちりしてない、この下の点ががっちりとした時がこの真の信心の、卒業と言う事じゃなかろうか、云う風に私は感じたんです。この点々がこう見事ですけど、点々がチョツチョツと押したばっかりの様な感じで頂いたんです、ははぁ是からの例えば永瀬さんの信心は、この何と言うですかまぁりゃぁ足許と言う事でしょうね。
 一番下ですから、愈足許の間違いない狂いのない、信心に進んでおいでられなければならんのだと、そこから言うならばお届けをしておられる、それこそ目出度い事の成就して行く、おかげになって来る、勿論いわゆる我が心が神に向かうのを信心と言うのじゃと仰るのですから。それが本当に是が神の愛という様な、高度な事になって行かなければなりません、ね。其処でです、私はまずその、親の愛を解らなければいけないと言う事です、私が此処で皆さんにね、信心の初歩の方に私が申します。
 もう本当に金光教の信心は親孝行がもう根本だと私は、親孝行の出来ない物でおかげの頂ける、いや力の頂けるとか、徳の頂けると言う事は絶対ない、おかげを頂いておる。ね。例えその親が親たらずとも、子は子たらなければいけない、それが親孝行である、親が親がと繋がってもです、子供は子供としての、在り方と言う物を解らせて頂かなければならないと言う訳です、其処でなら親に孝行と云うか、親に喜んで貰うと言う事はどう言う事であろうか。
 先日は誰方でしたでしょうか、あの共励会か何かでおそく晩遅く終わってから、皆を送り出して行って、そちらの信者さん方のあのーお便所を使うてから小便さして貰、そしたら次々と私の横に来てから、所謂ははあ、筑後の連れ小便ち、昔から言うちあるが、是が筑後の連れ小便じゃろうと私が用を足しながら云いましたら、その方がこう言う事を言うんですよ、是は親先生、侍(さむらい)のエチケットですとこう云う。誰方だったでしょうかそんな事を言う、ははぁ中々良い事を云うなと私は思うた。
 あぁ連れ小便と言うは男の方、女の連れ小便とは聞いた事はありません、からやっぱり男です、所謂侍の連れ小便というのはね、あれは侍としてのエチケットだそうです、どう言う事かと私が聞ましたらね、そのう誰れかがそのう例えば小便をしますとね、その連れの者もやっぱり行きたくなかったっちゃするのが、侍としてのエチケットだ。昔は皆んながサムライが大小を手挟ん(たばさん)でおりますね、ですから小便どもまりょる時に後ろから切付けたら、それでおしまいなんです。
 だからどうぞ君安心して小便して呉れよというのが連れ小便のいはばサムライとしてのエチケットだそうですよ、成程それなら安心して小便がされる、是は小便しょる時に、後ろから切り付らりゃせんじゃろうかと思うでしょ。だからその言わば不安を除くために連れ小便するんだと、それこそ小便行く行く聞かせて貰うたんですけど、中々うがった事だなと私は思うた、今日この事を頂きよったらその時の事を頂くんですよね、例えばね、親孝行と言う事はね。
 絶対親を後ろから切り付ける様な事は、しないとその人が安心する様に、家の子供に限って、絶対親不孝する様な事はしない、と親が信じ切れれる様な、息子なら息子娘なら娘になる事が、親孝行なんです。もう家の息子だきゃもう信用しとりますと、色々どんな事があっても、いや家の息子に限って、と親が信じ切っていると言う事です。だから信じられる子供になると言う事ですね。
 親孝行とは私は親に安心して貰える子だと思うです、是は人間親子の関係だけでなくて、信心の段々道と言う物も巧者になって参りますとです、神様に喜んで頂く、神様に安心して頂く氏子、是が真の信者の心掛けです。ね。真の信心をしなければ、真の徳も受けられない、真のおかげも頂けないそれはもう当然の事、神様に喜んで頂く、あの氏子だけは中々隅にはおかれんと、云う様な事ではおかげは頂いておっても、神様から喜んで貰う信者氏子とは言われません。
 所がですね神様がねあの氏子はと。例えばなら思はれてもです、段々信心が巧者になって来ると神様の心が解る、この位までは容赦して貰う是位の事は、神様が大目に見て下さる事が解って来る、それを法則が解ると言う、天地の法則と云のが、だからその法則にかからない所真でギリギリの線で、信心を進めて行くと云う人がありますよ、是がおかげを頂くこつはよう心得た人ですから、おかげは良く頂きますけど、お徳は受けられんです。例え悪い事をしてもです。
 神様はこう言う事はみすみす好きなさらん事は知っとっても、此処までは神様が罰当てになさらんとか、大目に見て下さるとかと言う事が解って来るんです。例えばなら、こりゃ人間親子の場合でもそうですよ、子供達がいくらでもおる、例えば未だ高校も卒業しとらんとに、タバコ喫んだり酒飲んだりするとしますかね、親ももうあの位の年配じゃけんで、まあ大目に見てやらじゃこてと言うそれをタバコ喫んじゃ出来んぞお前共はまだ未成年じゃけん酒飲んじゃ出来んぞと。
 まあそげんガミガミは言いませんがね、今どきの若い者じゃけん仕様がなかと云う様に、大目に見ておるですね。所がです。未成年のくせに煙草どん飲む様な事であっても、又は酒どん飲む様な事であっては、とても本当の人間にはなれないと、言う様な考え方する子供があると致しましょうかねただ、片一方では大目に見て貰っている。是は油断は出来んぞ家の息子はと言う様に何時も不安を感じさせる、親に。
 ところが、片一方の方はです、此の子だけは大丈夫というに言うでしょう、是は福岡の三代吉木先生が、何時も仰っとられましたね、お徳を受けた方に、タバコどものんだ人をまた聞いた事がない、とても金光様の先生を目指させて頂いてねタバコどん喫む様な事では出来んぞと思うて、私は一生タバコを口にする事をしませんでしたと、いうて言うておられました。
 私共も、もうそれこそ食う様に喫んでおりました、けれどもお取り次ぎさせて頂く様になったら、大変骨が折れました、けども何回もわたってあのう禁煙しました、止めました、タバコどもプカプカふかしよる様な事では、本当の取り次ぎ者としての、私はおかげが頂かれんぞと、自分でそう思ってます。だからそういう心掛けの、例えばなら先生なら先生をです、神様がね、あぁあの大坪総一郎という教師だけは、もう安心と私は思うて下さるのじやなかろうかね。
 是がタバコの事だけではない一事が万事がそうなのですからね、人の難儀を取り次ぎ助けねばならない、しかも大きな例えば此処でいうならば、和賀心時代を世界に広めさせて頂く様な御用にでも使うて頂きたいと念願するのですから。ね。そういう大きな願いを持つものは、人並みの例えば遊び半分の様な事をしょって、神様が御用に使うて下さる筈がない、又こんな事なんかはもう夢にも思いません、しようとも思いませんと言う様な在り方で願う所にです、私は神様のご信用が付いて来ると思うですね。
 親の言わば愛がわかる、子供が憎いとか、子供が不幸になればなんて思う親はもうそれこそ三千世界に一人だって居りゃしません、どうぞ幸せになって呉れる様にと言う事なのです。ね。それが様々な形に表れて来るね、放任主義の愛もありましょう、盲愛の言わば在り方もおりましょう、撫で摩りする愛もありましょう、叩き乍ら育てる愛もありましょう、そう言う様々な例えば、それが親心でしょうけれどもです、その親心から所謂真の愛が解って来る様になる段々。折角信心をさせて頂くならね。
 それは確かにです悪い事といえば言葉が悪いですけども、信心しょってもなら悪い事する人もあります、信心してね人の善いのと悪いのとは別ものと仰るのですからおかげは、けれども徳は頂かれません、まあ人間じゃけんこの位の事は神様も大目に見て下さるだろうと、成程法則を心得た人の言いそうな事です、けれどもそれは特別なおかげは受けられません、神様に何時もひやひやさせとる。一歩間違うたら。
 あれはおかげ落とす、一歩間違うたら、そこ迄はギリギリの線で行うとるのですから、その一歩向こうは、言うならばおかげの世界ではない世界、だからほんなおかげとおかげでない言うなら地獄、極楽の境の所を、こうやって行っておる様な危ない所を通っておる様な信心で、神様が安心して下さる筈がない喜んで下さる筈がない、なお神様から御信用が頂ける筈もない、ね。私はねこう言う信心を、このう割り切ったとか、所謂ドライな信心と思いますね、信心ばかりは矢張り古風であっても。
 エレガントでなければいけません。古風でなければいけません、ね。そして言うならば親に安心して貰えれる、まず孝行者を目指さねばいけません、其処ん所を永瀬さんの場合なんかは卒業されて、次のその真の愛の所へそれも点々が丈夫に出来れば、もう真の信心も卒業と言う様な、所を通っておられるんじゃなかろうかと言う風に、私は昨夜からお知らせ頂いた中から私は感じた。で今日この二十四節を頂きましたからです。ね。人に誘われてのしょうことなしの信心では付け焼き刃であり取り易いね。
 言うならばおかげ目指しての、いかにも打ち込んでおる様であってもです、なら自分の思う通りにならないと、あっ神様も大した事はないと云うて、信心がポロット取れてしまうね、そこでなら真の信心を、目指さして貰うとです、もうそのおかげとか御利益とはもう問題ではなくなって来る。どういう在り方にならせて頂いたら、神様に喜んで貰えるか、神様に安心して貰へるかと云う所に焦点を於て信心をする、神様が安心して下さる程しの、信者氏子にお取り立て頂くときに。
 なら私共の心の上に頂けるのが、安心のおかげというのです。ね。その安心の私はおかげこそを天地の親神様も、金光大神を通して、受けてくれよというておられる、しかもそれが一人ではない、家族中の者が勢を揃えて、真の信心を目指すと言う所にです、もうそれこそね。はぁやっぱり神様じゃなあと、云う様な偉大な力を発揮して、いわゆる神様の働きを表わして行く事が出来る、それこそ夢にも思はなかったおかげの展開というのは、そういう信心から、私は頂けると言う風に思います。
   どうぞ。